あいまいの美学

 

 

あいまいの美学といいますか

 

なんていうのか

 

 

囲碁は、将棋とかテレビゲームとか

 

 

まあテレビゲームっていっても広いから例えば

 

ある作品はドラマチックで目的も明確なのに

 

続編では一転してシステムや世界観がぼんやりとしたものになっていたり

 

 

まあ映画でも小説でもいいんですが

 

そういったケースで続編のほうを好まれるタイプの方は

 

 

囲碁派っていうのか

 

 

囲碁をやれば夢中になること間違いなし

 

と思います

 

 

‥‥間違いなしなんていってみましたが

 

人ってコンピュータに比べて

 

そういうふうに二極化っていうのか

極まった形にしてわかりやすく整理してしまう傾向があると思うんです

 

こと囲碁においては

 

部分的な死活問題が出てきたときなど

 

ひと通り読んで生死の判別ができたら

 

その結論を切り離してストックしておけるわけです

 

ほら、アルファ碁vsイセドル九段の1局目で‥‥

 

 

 

 

アルファ碁vsイセドル九段は盛り上がりましたねえ

 

 

セドル九段が4局目に放った妙手は

世界中で感動を呼びました

 

囲碁では審美眼が重要と前に書きましたが

ああいった手を見て「ああ美しいな」と感じていただけたらと思います

 

 

ええとその、1局目の上辺でセドルさんの黒石に関する死活問題が出てきまして

 

アマチュアには難解なものですがセドルさんにとってはひと目でしょうから

 

セドルさんはあそこは黒生きと早々に判定を下して切り離して考えていたと思います

 

 

対するコンピュータは全局を抽象的にとらえる能力に長けているぶん

そういった死活などに関しては

一手進むごとにいちいち読みなおしているような感じがするんですよね

 

この碁ではアルファ碁の右辺への打ち込みから激しい読み合いが展開されますが

その前に上辺の黒に対してアルファ碁が

誰の目にも明確に生きと分かる段階まで形を決めにいった

場面がありました

 

こういった打ち方は“味消し”とされ

保留されるべきケースのほうが多いのですが

それを行った理由として

上辺の死活を切り離して考えることが出来ないアルファ碁は

そうしないことには上辺に思考のエネルギーが取られてしまうため

右辺の攻防へ全力投球することができない

といったことがあったのではと思います

 

 

どうせまるで的外れなことを言っていると思いますので

横道で済ませておきましょう

 

 

まあ、そんなわけで

 

“全力投球”なんかもつい使っちゃうのですが

 

実際はそんな極端なものではなかったりするのですが

 

極端な表現のほうが簡明なんで使っちゃうのですが

 

最初に言いたかったことなのですが

 

囲碁は様々なゲームの中でも特にあいまいな要素を多く持っているので

美しいものに触れ審美眼を磨くといったことが意外に重要なのです

 

そんなわけで、今回は囲碁の美学や芸術性に関する部分を取り上げてみたいと思います

 

左右の図の黒の形を比べてみてどちらのほうが美しく見えるでしょうか。

 

 

例えばこのような形

 

黒は白の断点を狙いたいところですが

 

黒1と今すぐ切るのは白2から自分が取られてしまって失敗に終わります

 

そこで次に切るぞと迫りながら白の根拠をうばって攻めていくことが考えられます

 

 

黒1とノゾキ(次に切るぞの手)を打てば白は2とツナギます

 

白からすれば切られるのを防ぐ方法が他になく選択の余地がありません

 

味も素っ気もないとはこのことで

この黒の打ち方はいわゆる「生ノゾキ」や「命令手」などと呼ばれる筋悪となります

 

ですが、困ったことに、このような手を好んで打つ方が結構いてそれなりにつよかったりします

 

筋悪独特の力強さなんていうものもあるから世の中は難しいのですね

 

良いノゾき方はこちらの黒1、この手は白A以外にBやCなどツギかたに選択の余地を与えているところがポイントです

どの受け方にも短所があり、前の図と同じように白Aと受けることも考えられます

 

2つの図を見比べてみましょう

問答無用にツナギを打たせた左の図と相手に迷わせながらツナがせた右の図

 

なんとなく右の図のほうが美しく見えるという方は

良いセンスをお持ちです

 

さらに、白が手を抜いて黒が切った図を比べてみましょう

 

こうなると左は黒にとって最高の形となり白は壊滅状態

右の図はそれに比べるとだいぶ劣るもほどほどの戦果かなといったところ

 

ここに人生の奥ゆかしさがひそんでいます

 

すなわち、“もう一手続けて打てば最高の結果を得られる”手は

大概悪手(受けられたとき不利になるケースが多い)になり

“ほどほどの戦果”程度なら

受けられても手を抜かれても悪手にならないわけです

 

“最高の結果が透けて見えるような物事ほど良からぬ結果を招く”なんていうと

まるで仏さまの教えのようですが

囲碁にはこういった教訓が詰め込まれてもいるのですね

 

長くなるので続きは次回

 

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